10月10日のゼミ日誌(第1期)

この日の日誌当番は柿本さんです。

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この日の授業では、第4章〜第6章について考えた。
第4章の冒頭では、「何をどう考えるにせよ、その背後には必ずヘールシャムの日々があり、」とキャシーは語っている。それだけヘールシャムに対する想いが強いことが分かる。特に、エミリ先生の存在は大きい。説教中に発せられた”unworthy of privilege”や、”misuse of opportunity”などの言葉は生徒にヘールシャムの生徒だという自覚を促させたがその特権とは何かという謎も与えていた。
第5章では、森に対する生徒たちの興味について書かれている。生徒たちは、森は怖いものでヘールシャムの本館正面が唯一安全な場所だと考えていた。ここでの森は、生徒たちにとってのヘールシャムの外だと考えられる。ヘールシャムを一歩出ると何が起こるのか想像できず、その恐怖感が森に投影されている。”I’m not saying we necessarily went around the whole time at that age worrying about the woods.”とあるが、いつかは外に出ていかなければならないということを知っているため、森への関心が消え去ることはなかったのではないだろうか。
第6章では、キャシーがジュディ・ブリッジウォーターの「夜に聞く歌」を聴きながら枕を赤ん坊に見立てて抱き、スローダンスを踊っていた。マダムがそれを見て泣いていたが、”Madame hadn’t nearly come up to the threshold.”とあるように、クローンであるキャシーには近づこうとはしなかった。マダムはクローンのための活動をしているが、クローンに恐怖心を抱いているから近づかなかったのではないかと思う。枕を子どものように抱いた姿には同情心や、クローンといっても感情はあるのだと気付きうれしくなった、など様々な感情が交じっていたのだろう。

<感想>
探しても見つからない物でも、ノーフォークに行けば必ず見つかると信じていたという子ども達が印象的だった。冗談交じりでもいいから、何かにすがりたくなっていたのかもしれない。後にキャシーが、ノーフォークで大切にしていたテープと同じ物を見つけることで、信じることでいつかは報われるのだと感じた。親のいない子ども達にとっては、自分の元となった人間はノーフォークにいるのかもしれないという幻想もあったのかもしれない。友人や恋人といった近くの心の拠り所と、ノーフォークという遠い心の拠り所を上手くコントロールして、気を保っていたのかもしれないと思った。

=====ここまで=====

キャシーたちが親という存在をどう思っているのか、親がいないことに対する空虚な感じを持っているのか、などなど、考えさせられますね。後になってノーフォークにルースの「ポシブル」を探しに行くエピソードが出てきますが、ポシブルに対する思いと親に対する思いはどう違うのか…。その辺も含めてゼミのときにご意見を聞かせてください。