7月17日のゼミ日誌(第2期)

今回の日誌当番は加藤さんです。

===ここから===

今日はNever let Me Goについて最後の発表回でした。キャシーの語りについて、そして臓器提供についての発表が4つありました。

 一つ目は八塚さんの「キャシーの語りとルースの存在」でした。発表の冒頭で柴田元幸さんによる作品の解説が紹介され、そこではキャシーの語りを以下のように評価されていました。「細部まで抑制が利いていて、入念に構成されている」、「静かで端正な語り口とともにはじまって、いかにもありそうな人間関係が丹念に語られるなか、作品世界の奇怪なありようが見えてくる」。八塚さんの発表はこれに基づいて進められました。

キャシーは時系列でなく、記憶をたどり連想して物事を語っていると説明がありました。しかしヘールシャムやコテージ、そしてマダムなどついては説明や補足があるものの、キャシー自身の思いが語られきれていないとの指摘がありました。

対してキャシーが十分に語っていない出来事として、トミーとルースの恋愛が挙げられました。周囲が二人を評価するときも、破局したときも、キャシーは自分の思いや望みを語っていないと指摘がありました。

これらから私は、キャシーは誰に対し語っているのかが特に気になりました。キャシーの語りは、日記のように自分をありのままに表現しているのではなく、聞き手を意識しているものなのではと感じました。

ここからは臓器提供に関する発表があり、二つ目は内藤さんの「Never Let Me Goから見るクローン人間と現代の臓器提供と作品」でした。

まず代理出産にまつわる「ベイビーMの悲劇」、そしてクローンペットなどを取りあげ、その問題性について言及されていました。どれも一貫していのちとは、人間とは何なのかを考えさせられる論理的問題でした。

発表の最後にはクローンの出てくる作品として、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が紹介されました。その中から、あるクローンの女の子のボディが処分されるシーンを見て、見た目は人でも人間として扱われていないクローンの存在を感じました。クローンであれば心がないのか、また心とは何なのかを考えさせられました。

三つ目は矢野さんの「日本と英国における臓器提供について」でした。まず現実の日本とイギリスの臓器提供について比較した紹介があり、日本の臓器提供数の少なさに驚きました。

しかし二国の死生観を知り納得につながりました。発表で紹介されたそれぞれの死生観は、イギリス「西欧では“こころ”と身体をはっきり区別する物心二元論の立場であり、死んだ肉体には霊性を認めない」、日本「元来“こころ”と身体を区別しない。身体にも“こころ”と同じ神聖性を認め、遺体を丁寧に扱い、あの世へ送る習慣が強い国」でした。大まかに捉えると、心と身体を区別するかしないかの違いです。確かに私自身も、「自分」とは身体のことも含んで考えていると思います。イギリス、日本の死生観がなぜこのようになったのかの歴史、そして日系イギリス人である作者の死生観も知りたいと思いました。

最後の四つ目は長坂さんの「Never Let Me Goと現実の科学技術の比較」でした。

科学技術に伴うマイナス部分について言及がありました。反対のプラス部分としては、「人を救う臓器のためのドナーとしてのクローンの存在」と述べられていました。マイナス部分として挙げられた「周辺分野(社会・論理・宗教など)との不協和性」が特に気になりました。キャシーたちがヘールシャムやノーフォークといった場所にすがる場面はありましたが、信仰する宗教があれば何なのだろうと思いました。

今回発表を通してキャシーの語り、臓器提供について振り返ることができました。 全ての発表を聴き終えたので、それらをふまえてもう一度作品を読み返していきたいと思いました。

===ここまで===

Never Let Me Goから、社会、科学の問題へと果てしなく話題が広がるような印象ですね。卒業研究にこちらを取り上げる人もいますし、さらに読みが深まり、話題が広がるのが楽しみです。