デイヴィッド・コパフィールド翻訳情報+「デイヴィッド・コパフィールド的」とは?
英米文学概論Ⅱの授業の中で言ったように、『大いなる遺産』のレポートを書くのに、『デイヴィッド・コパフィールド』と比較してみるという方法もあります。原作は敷居が高いかもしれないので(2012年度後期に行うゼミでは原作も読みますが)、翻訳を紹介すると、中野好夫先生による訳(新潮文庫)と石塚裕子先生による訳(岩波文庫)の二種類があります。中野先生の訳も趣があっていいですが、読みやすさを考慮して、石塚先生の訳をお勧めします。
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『デイヴィッド・コパフィールド』と聞いて、J.D.サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の書き出しを思い出す人もいるかもしれません。村上春樹訳をちょっと引用すると、
「こうして話をはじめるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子供時代を送ったかとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド・カッパフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない」(村上春樹さんは、"David Copperfield"の"Copperfield"を、「コパフィールド」ではなく「カッパフィールド」というカタカナに置き換えているわけですね)
ここでサリンジャーは何の説明もなしにいきなり「デイヴィッド・カッパフィール的な」という表現を使っている。つまり、「デイヴィッド・カッパフィール的な」と言えば読者が「なるほど、ああいう感じね」とイメージしてくれるだろうと、サリンジャーが期待していることが分かります。それでは「デイヴィッド・コパフィールド的」とはどういうことか、その答は実際に『デイヴィッド・コパフィールド』を読んで見つけましょう。
サルマン・ラシュディの『真夜中の子供たち』という小説の書き出しも、「デイヴィッド・コパフィールド的なもの」のパロディーだと言われることがあります。